1964年の東京五輪のボート競技会場のレガシーは今どのようになっているのでしょうか?
オリンピックのボート競技の会場を決めるのが難航しておりますね。
▽【東京五輪ボート会場問題】小池百合子都知事は"海の森"を批判 年間2億円の赤字も|ニフティニュース
小池百合子東京都知事の負けられない戦いがそこにあるのか。
もしくは、森会長としても絶対に引くことが出来ない何かがあるのか。
はっきり言って、国民にとっては何が何だか分からない状態な上に、どっちに決まったとしてもうんうんと頷くことしか出来なそうですが、そこには多くの税金が投入されることになります。
そこで問題となるのが「レガシー」。
競技大会後に残る有形無形のレガシー、すなわち「社会的遺産」(ソーシャル・キャピタル)・文化的財・環境財のこと。
「東京オリンピックの祭りの後に何が残るか」
ということです。
今回の東京五輪のボート競技会場を決めるにしても、それらの施設がオリンピックのあとに遺産としてどのように使われるかが焦点となっているようですが、それらを考える上で前回のオリンピックで作られたボート競技会場のレガシーが現在どのように使われているかを見てみると、この問題を考える上で非常に役に立ちます。
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1964年東京オリンピックで最終的にボート競技会場に決まったのは、戸田漕艇場です。
埼玉県戸田市にある漕艇場で、今でも大学や実業団のボート部が練習場として使っていたり、全日本レベルの大会も開かれる国内でも由緒正しきボートコースです。
西側の四分の一はボートレースの会場であり、開催日にはこれを目当てに多くの人が集まります。競艇場ってなかなか行くことが無いけど、フードコートとかモツが売っている売店があったりしてなかなか楽しそう。
ちなみに、今回のオリンピックで急遽誘致に手を上げた彩湖もこの戸田市にあり、戸田漕艇場の近くにあるのです。
彩湖(さいこ)は、荒川第一調節池(上記)内にある貯水池として1997年(平成9年)に完成した。全長8.1km、面積は1.18km²、総貯水量は1060万m³に及び、中央付近を東西に幸魂大橋が架かる。
当時のボート会場のレガシー(遺産)はこれらのように使われているのですが、問題はこの戸田漕艇場で無事開催が決まるまでです。
歴史的な事情もあり、おそらく今よりも大変そうでした。
そもそも、この戸田漕艇場が造られたのは、1964年の東京オリンピックから遡ること20年。1940年に東京で開催が決定されていた第12回オリンピック大会のためでした。
結局この第12回大会は太平洋戦争のために中止されてしまい、幻の東京五輪とも呼ばれるのですが、そのボート会場として建設が始まっていたこの戸田漕艇場の工事は途中で止めることも出来ず、最初の予定通りに1940年に完成しています。
ちょっと年表を見てみると
1936年7月 1940年に東京でオリンピック開催の決定
1937年5月 戸田漕艇場の工事が開始
1937年7月 盧溝橋事件勃発。日中戦争へ)
1938年7月 東京オリンピックの返上を閣議決定
1940年10月 戸田漕艇場が無事完成
(1940年10月 幻の東京五輪)
工事開始の2ヶ月後に戦争が勃発してしまうとは、なんとも、、。オリンピック招致に喜んだ人の落胆は大きかったことでしょうね。
とは言え、この戸田漕艇場はオリンピックのボート会場としてだけでなく、荒川の治水対策でもあったために工事は続けられたそうです。
完成後はさすがに戦時中はボート場として使われることは少なかったでしょうが、戦争も終わって平和な時代となると都内にも近いボート場として大学のボート部が練習に使ったり大会が行われていました。
当時は護岸もコンクリートじゃない土手のようなもので、近所の子どもたちが釣り糸を垂らして魚釣りを楽しんでいるという、なんとものんびりとした風景のようでした。
さて、そんな戸田漕艇場でしたが、再び脚光を浴びるようになったのが、東京オリンピックの開催が決定した1959年のことでした。
そして、1961年には戸田漕艇場がボート会場として決定しました。
新しい東京オリンピックは1964年のことなので、その3〜5年前の話しなので、ちょうど今のような状況なのでしょう。しかも当時は戦争が終わり高度成長期に突入するという時代なので、国家も国民も総動員をかけて平和の祭典を迎えようとしてたことでしょう。
それは幻の五輪のボート会場として漕艇場を作った戸田町(当時の戸田はまだ「市」ではなく「町」でした)も同じで、というかそれ以上に町民総出でオリンピック会場を迎えようとしたのではと想像されるでしょう。
でもそんなに簡単にはいかなかったです。
『広報戸田』1962年5月号
1962年の5月。戸田町議会は前年に決まっていたオリンピックのボート会場の使用に関して反対の決議をしたのです。
理由は、
・戸田漕艇場やその周辺をオリンピック仕様に改装することに、多大な費用がかかるため
・戸田競艇場(ボートレース)の開催をオリンピックのために中止する必要があるため
とのことでした。ちょっと今のような状態ですねかね。
まだその段階においては国や県からの補助金をどれ位引き出せるか分からなかったこと。そして、戸田町にとっては大きな財源となってたであろう戸田ボートの休業補償をどうしてくれるかということで町議会としては反対決議をしたのです。
とは言え、オリンピックも間近に迫っている段階です。
国家の威信をかけてオリンピックを成功させなければいけない政府と県は、それらの負担を引き受ける事や、戸田町に恩賞を付けることを約束しました。
『広報戸田』1962年10月号
・戸田漕艇場とその周辺の整備
(道路を公園や運動場の建設)
・国道17号線や地下鉄(三田線)建設の推進
・戸田ボートの休業補償を行う
以上の事が約束されたので、戸田町議会はオリンピック開催へと舵を切ったのでした。
それでは、東京五輪のボート競技会場のレガシーについて見てみましょう。
上記のように戸田漕艇場はボートレース場として使われています。
これはボートレース好きの人にとってみたら嬉しいことでしょう。そして戸田市にとってみたら、この戸田競艇は収益事業収入としてのお金をもたらしました。
同じく戸田漕艇場なのですが、大学や実業団のボート競技の会場や練習場として使われています。東京近郊のほぼ唯一の本格的な漕艇場であり、多くの有名大学や企業のボート部の艇庫があり、今回のオリンピックでもここで練習した選手が多く出場することでしょう。また、戸田にはボートの街としてのイメージが作られました。
会場誘致の際に作られた道路はオリンピック通りと名付けられています。
また会場周辺に造られた運動施設や緑地は公園として整備されています。
1964年のオリンピックからすでに半世紀近くが経っていますが、その1つの会場の跡地さえもレガシーとして有形無形の遺産を残しているようです。
今回のオリンピック会場の決定に関しても、単なる政争の具や利益誘導のためではなく、50年後に市民がどのように使っているかを考えて決めて欲しいものですね。
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