赤羽は東京都23区で一番最初に出来た大規模団地がある街である。
時は戦後の高度経済成長期。
多くの人々に効率的に住居を提供したのが団地であるが、そんな多くの人々の胃袋と生活物資を提供したのがスーパーマーケットである。
この赤羽では、当時東日本で業界トップであった西友と、西日本のトップであったダイエーとが激しく価格競争をしたのであった。
この仁義なき戦いを世の人々は「赤羽戦争」と言うのであった。
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大量消費、大量生産という言葉には、もはやノスタルジーさえ感じるこの頃であるが、当時は価格安い大量の商品を揃えることは正義であった。とにかく競争相手よりもよい品を1円でも安く消費者に提供することが求められた時代であった。
さて、赤羽の話である。
この街を元々領地としてたスーパーは、西友赤羽店であった。
当時、西武鉄道ないし西武百貨店の傘下であった西友は、本拠地の池袋にも近いこの赤羽は絶対に落とせない街であったのだろう。地上7階建ての大型店舗を作り上げた。
この店舗は全国10位以内のトップクラスであったということに、西友がいかに赤羽を重要視していたかが分かる。
そんな赤羽を虎視眈々と狙っていたのが、価格破壊の旗印を掲げて西日本から攻め上がってきたダイエーだ。
スーパーマーケット界のカリスマであった総帥中内功の元、首都圏攻勢を狙っていて、この赤羽に拠点を築こうとしてたのであった。
満を持して開店したダイエー赤羽店は、東京23区で初となる店舗面積1万㎡クラスの大規模総合スーパーであったという。
大型店対大型店。超弩級戦艦同士の海戦を思わせるような戦いである。
西友赤羽店とダイエー赤羽店は、今後の首都圏での覇権をかけて、この赤羽でぶつかりあったのである。
当時の戦いで重要な要素は、価格でる。
西友に戦いを挑んだダイエーの戦略はこうだ。爆発的に安い価格を広告などを使って消費者に提示し、お店に呼びこむ。釣られたお客さん達は、その価格の安さと溢れんばかりの店頭の商品に惹かれて、どんどん買物をしてしまうという。
もちろん西友も負けてない。
ダイエーの価格よりも安い価格を提示し、取られそうになるお客さんを取り戻すのだ。相手の価格が出てきたら、それよりも1円でも安い価格を提示する、すると再び相手も1円でも安い価格を提示する。この繰返しだ。
言うならばこれは消耗戦であり、どちらかが倒れるまでの殴り合いである。
そしてこの赤羽戦争、結果としてはダイエーが勝ったという。
やはり価格破壊の代名詞であったダイエーは、こういう戦い方に慣れていたのであろう。なんだかんだ言って百貨店傘下であった西友よりも、戦争を生き延びて闇市上がりの中内功率いるダイエーの方に分があったのだ。
一般大衆の街、赤羽でのダイエーの勝利は、大衆が力を持ってくるこの時代の覇権を予感させるものであった。(なお価格競争に負けた西友はこの後、高級化路線に進んだという。)
さて、時代は進む。
赤羽戦争を征しスーパーマーケット界の覇権を進んだダイエーも、バブル崩壊し失われた20年になると経営不振が表面化しイオンの配下へと降ることになった。不採算店の廃止は進んだが、
赤羽店は存続している。首都圏戦争の旗艦店であった旧来の店舗は2009年に建て直しを行い、新しい店舗はライフスタイル消費を重視した売り場へと変化している。
一方の西友は親会社のセゾングループ・西武百貨店は解体し、米国ウォルマートの傘下となった。米国流の超超弩級の大量消費方式による価格安い(KY)戦略を行っているのである。
西友の高級化路線のひとつであったプライベートブランドは無印良品としてその後独立し、「シンプル is Best」の現在において強固なファンを持っているのである。
なお、ウォルマート傘下の西友における現在の本店はこの赤羽店である。
さて、赤羽において赤羽戦争後に西口に進出してきたのが、イトーヨーカ堂である。セブン-イレブンで鍛えたPOSシステムと顧客重視の商品戦略は消費業界の巨頭として存在感を示す。
このように赤羽は庶民の消費生活の実験場さながらに、各スーパーマーケットが並んでいる。
また、駅前のファッションビルにはユニクロをはじめとする、各種専門店が入っている。
東口のララガーデン商店街は、チェーン店の飲食店が多いし、昔からのお店もある。
さらには、首都圏における人の流れを征するとされるJR東日本傘下の商業エリアもあるのだ。
というわけで、今の赤羽の勢力図はこんな感じです。
これらの店舗が時代の流れに合わせてどのように変化していくのか。消費生活がどうなっていくのか。それを観察出来そうな街ですね。
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