蕨を散歩してきました。和楽備神社に蕨城址跡。それに歴史民俗資料館を巡ります。
「蕨」という全国的にも珍しい地名。
読むのは難しいですが、書くのはもっと難しい。
蕨市の観光大使だった石原良純さんが漢字を書けなかったという噂がありますがそりゃ難しいですもんね。しょうがないと思います。
さてそのような蕨を散歩してきました。
蕨は埼玉県にある京浜東北線沿いの街。さいたま市と川口市に挟まれた日本一小さな市なので軽く見ていたのですが、成人式発祥の地であったりとなかなか特徴的な街です。
さて、そんな蕨の名前の由来を探るにあたって気になったのがこの神社です。
その名も「和楽備神社」。
呼び方が「和楽備(ワラビ)」なので、そうか、この神社がはるか昔からあって、この地名が「蕨」となったのはこの神社に由来しているのではと思ったのですが、どうも違うみたい。
というのも、この和楽備神社が出来たのは明治44年。
そう近代なのです。
明治政府による神社合祀という政策により、日本各地において神社の統合が進んだのですが、その一例がこの和楽備神社なのです。
この政策の背景には、言わばそれまでのおらが村の神様を、中央集権的な国教としての国家神道の配下にしようとする意図によるのですが、これによりこの地域の村にあった神社は和楽備神社として統一されたのです。
このような歴史を持った和楽備神社なので、祀られている神様も主祭神である誉田別尊以外にも10柱の神様が合祀されているし、神社の名前も「蕨」からとった「和楽備」とされたのです。
全国には神社名をとって地名とした街も多くありますが、ここ蕨は地名の方が先で、「蕨」という名前はもっと昔からあったのです。
スポンサーリンク
スポンサーリンク
昔からの地名を持つ蕨ですから、歴史も古いです。
そんな蕨の歴史を今でも感じる場所が2つあります。
蕨の歴史を知るにはやはりここ。
蕨市が運営する資料館です。
蕨は江戸時代においては、中山道の宿場町である蕨宿として栄えたのですが、そんな蕨宿とはどのようなものだったのかを中心に、蕨の歴史に関する資料や展示物を数多く見ることができます。
中山道の中でも江戸から二番目の宿場町であった蕨宿。参勤交代の時には多くの大名も宿泊したとのことで、かなり立派な本陣もあったそうです。
歴史民俗資料館の横にはそんな本陣を模した建物もあり、由緒正しき宿場町「蕨」の姿を垣間見ることが出来ます。
そんな蕨市立歴史民俗資料館は、旧街道沿いの通りに建てられているのですが、松が植えられていたり、中山道を描いた歌川広重による浮世絵図があったりと、ところどころに昔の蕨宿の姿を忍ばせる雰囲気となっております。
まさに、当時の姿が目に浮かぶような歴史通りとなっているのです。
ノスタルジック感のある蕨の商店街と合わせて散歩するのがおすすめです。
さて、もう一つの蕨の歴史を探る上で欠かせないのが、蕨城です。
蕨城(わらびじょう)は武蔵国足立郡(現在の埼玉県蕨市)にあった日本の城である。南北朝時代に室町幕府の渋川氏によって築城された。
築城されたのは南北朝時代なのですが、蕨城が歴史の中でクローズアップされてくるのが、もう少し後の室町時代後半の頃です。
当時の関東地方は内乱状態です。本来だったら室町幕府による関東支配システムを仕切るはずの古河公方が幕府に対して反旗を翻して、さらに地元の武士団やら有力大名などが入り乱れて争っていたのです。
歴史の授業としては京都での応仁の乱が主に扱われますが、関東地方の歴史で見たら間違いなく重要な時点です。
さてそのような時代において各勢力の勢力圏争いの最前線に位置していたのが蕨城です。そのため、争いの度に支配者が変わっていたということなのですが、戦国時代も後半になってくると城主も不在で廃城状態だったとされています。
城としての遺跡もほぼ残っていない上に、普通の住宅地の真ん中にあるような場所なので、こんな所に城が、、とも思いますが位置はしっかりと残っています。
蕨城址公園と整備されていて、さらに蕨市民会館の場所がその本丸跡とされています。
ちなみに、冒頭に出てきた和楽備神社もその跡地であったとされています。
蕨城址公園と言っても、あまり城という戦闘的な性格を持つ遺跡の雰囲気はしません。
地形としても平坦な場所にあるし、まん丸く広がった芝生に降り注ぐ陽光は、なんとも平和な昼下がりでした。
とは言え、やはり城の跡地であることを表しているのか堀のようなものもあったりと。
一般的に「ワラビ(蕨)」と言えば山菜のことなので、この蕨市も名前の由来には蕨がここ一面に生えていたような土地だからかなとも思ったのですが、どうも諸説あるようです。
僧慈鎮(じちん)の「武蔵野の草葉にまさるわらびをげにむらさきの塵かとぞみる」の歌をもって名付けた
この説が正しいならば、やはり蕨市は植物のワラビに由来するのかなと思いますが、
源義経が立ちのぼる煙を見て「藁火村」と名付けた、在原業平が藁をたいてもてなしをうけたところから「藁火」と命名した
こちらの説ならばちょっと違いそうです。
私としては、蕨の地形的な部分から、この周辺にはワラビをはじめとした草木の生えていた野っ原で、それらのことからこの周辺には草木の名が付いた地名が多い説を支持したいのですが、真相はどんなもんなのでしょうか。
いずれにせよ、蕨は歴史が古くて伝統がある街です。
日本一小さな市かもしれないけど、その中には街の歴史が脈々と流れているんだなと感じました。
スポンサーリンク