軍都だった赤羽。今でも残る軍用鉄道や軍事工場の跡地を街で見つけてみましょう。
東京都の北の入口である「赤羽」
街の北には荒川が流れていて、南には武蔵野台地の北端があります。高台の見晴らしの良い所に立つと、埼玉県側一円が見渡すことが出来る街なのです。
この前面には幅広の河が流れる高台という地形。このような地形は軍事的に有利な場所です。
明治以降には旧日本軍の基地や軍事工場が駐留し「軍都:赤羽」として発展し、今でも軍用鉄道の跡や軍需工場の遺跡を赤羽を歩くと発見することが出来るのです。
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さて、赤羽は上記のように東京の中でもなかなか面白い地形をしています。
北の荒川から東側にかけては低地であり、いわゆる下町的な密集した住宅が立ち並んだ地域です。また、魅力的な呑み屋が並んでいると最近人気が高い赤羽の居酒屋通りや歓楽街、商店街やスーパーなどがあり、赤羽の商業的なエリアでもあります。
一方の西側から南にかけては高台であり、そこには赤羽台団地や桐ケ丘団地がある都内でも有数の一大団地地帯として名が通ってます。特に赤羽台団地は東京23区ではじめて建てられた大規模団地であり、昭和の住宅事情を今に伝える文化遺産です。
このように下町的な密集した低地と、広大な敷地の大規模団地がある高台とが入り混じっているが赤羽です。
写真の上側に流れるのが荒川で、写真の右側が低地。左側が高台という地形。
その低地と高台とを隔てる崖はまるでリアス式海岸のようにぐねぐねと入り組んでいるのです。この崖の標高差は約15メートルほどあり、段丘崖と呼ばれる急な崖なのですが、下町の住宅事情を反映してか斜面状のところにもびっしりと住宅が建っているのが特徴的です。
ちょっと上空写真で見てみましょう。
低地部分から崖の部分にかけては住宅がびっしりと密集している一方、高台の部分には四角形の団地が規則的に並んでいるのに気付かれると思います。
この団地が並ぶエリアこそが戦前は旧日本陸軍の軍用地の跡であり、軍都赤羽の名残を残す場所なのです。
戦前、赤羽には2つの大隊が置かれていました。
1つが第一師団工兵第一大隊であり、もう1つが近衛師団工兵大隊。
工兵とは陸軍の中でも土木建築を得意とする部隊であり、戦いの時には陣地を作ったり、道路や橋を作ったり、相手陣地を破壊したりします。後方支援が中心のような感じもしますが、実際の戦闘でも前線に出ていき、砲弾が飛び交う中で作業を行うわけですから危険なことには変わりないわけです。
また赤羽にはこれら大隊の他に、
被服本廠、兵器補給廠、陸軍火薬庫
の軍用地がありました。
被服本廠や兵器補給廠とはなかなか聞き慣れない言葉ですが、「廠」とは工場のことを意味して、これらは軍用品の開発や製造、貯蔵などを行う工場や倉庫のことを指したのです。被服廠とはその名の通り被服品を作って工場であり、軍服や軍用雑貨など軍隊の行動に必要な膨大な量の軍用品をここで製造していたのです。
東京の被服廠と言えば、関東大震災の時に大きな被害が起こった墨田区の被服廠跡が有名ですが、その被服廠が大正8年に移転してきたのがこの赤羽の被服本廠なのです。
さて、このように赤羽は軍用地と言っても、軍事工場や軍需品の貯蔵施設が中心なのが特徴的です。
しかし近代の軍隊においては物流(ロジスティクス)とは最も重要なもののひとつであり、軍用品を滞りなく補給することこそが勝敗を分けるといっても過言でなく、それらを支えたのがこの赤羽周辺に広がっていた軍用地なのです。
それでは赤羽に広がっていた軍用地について地図で見てみましょう。
現在の地図に昔の軍用地(の一部)の場所を描いてみたのですが、
赤羽台団地→被服本廠
桐ケ丘団地→陸軍火薬庫
星美学園→第1師団工兵大隊
社会保険病院→近衛師団工兵大隊
が位置していました。
青い線は陸軍兵器補給廠専用線という軍用鉄道が通っていた場所です。
またここより南側の十条付近においても、造兵廠や銃砲製造所があったなどまさに軍都赤羽にふさわしい壮大なものでした。
戦後はアメリカ軍によって接収されたのですが、時代も進んでくると徐々に返還され、これらの広い軍用地は団地や学校や公園などの平和的な施設へと変わっていったのです。
現代においてもこのエリアの広い敷地を持つ施設が多くあるのですが、それらは戦前に軍用地であった場所と考えると良いでしょう。
軍事工場が置かれる場所として必須の条件があります。それは
・他国からの攻撃をできるだけ避けられる安全な場所
・輸送の便のよいところ
というものがあるそうです。
たしか赤羽は東京都の北の端であり東京湾からも遠い場所です、さらには軍用地のあった場所は高台に位置し荒川の洪水からも安全そうだし、武蔵野台地の上という地盤の強さもあります。
また、輸送の面からも赤羽は鉄道の要衝であり交通の便の良さは都内でも随一です。また、街の東側に位置している低地帯は町工場が密集した地域であり、東京の工業地帯でした。特に紡績業が盛んでそれらの工場は被服本廠の下請け工場としての役目を担ったのでしょう。
これらの軍用品の輸送に関しては軍用鉄道が敷かれていました。
もちろん今ではとっくに廃線されていて、その跡地も普通の住宅街の中に紛れ込んでいるような状態なのですが、赤羽緑道公園や桐ケ丘中央公園沿いの遊歩道にはその線路跡のモニュメントがあったり、街中を歩いていても元々は線路だったのかなという場所を多く発見することが出来ます。
廃線跡を探しながら歩くというのは中々楽しいもので、どんどん巡っていけます。
赤羽駅から線路沿いに北に進んでいくと、急な坂が表れるのですが、そこを上がったところにあるのが赤羽八幡神社です。
こんもりとした小山の上にあって、この高台の上から見てみると、赤羽の街が一望することが出来ます。
この赤羽八幡神社なのですが、その昔、平安時代の桓武帝の頃、蝦夷平定の命を受けた坂上田村麻呂が陣を張ったとの言い伝えがあります。
そして、荒川の河川と武蔵野台地の高台との天然の堅固な城壁が、この地域の守りの要となったこともありました。
平安から室町時代まで、この地域で勢力を持った豊島氏は、上中里周辺に平塚城を築きました。
また最初の江戸城を築いたことでも知られる太田道灌は、赤羽に稲付城を築きました。
稲付城の名残は現代でも残っています。
赤羽駅を少し南に行ったところにある静勝寺。このお寺こそが元々稲付城があった跡地なのです。
境内へ入るには非常に急な階段を上るのですが、もしもこの階段が無かったならばこの一面は急な崖状の斜面。まさに石垣となって敵の侵入を拒んだことでしょう。
お寺の歴史を紐解いてみると、その昔には亀ヶ池という大きな池もあり堀としての役目を担ったそうです。
その複雑な地形から、軍事的な要衝として使われてきた赤羽。歩いてみるとこの街の歴史を見つけることが出来そうです。
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