「貴族」という言葉は、今や鳥貴族くらいしか思い浮かばないんだけど、昔の時代はたしかに存在していた。
明治、大正、昭和の戦前までは。
身分制度であり、庶民とは離れた存在、それこそ特別な階級として存在していた。
もちろん現代でも家柄とか経済的な格差もあるかもしれない。しかし当時は、その血筋によって、圧倒的な上流階級として貴族があったのである。
そんな貴族の生活をちょこっと見てみようと思う。
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目黒の駅を降りて、目黒通りを白金台方面へと進み、東京都庭園美術館へと向かう。
この周辺には長者丸や白金台といういかにも景気の良さそうな地名が残る場所ではあるが、この場所も元々は徳川家の親藩、高松松平家の屋敷跡だ。
明治時代になると、一時的に陸軍の火薬庫になったが、その後は皇室財産となり朝香宮鳩彦王の住居となった。
朝香宮鳩彦王と言われても、どこのだれだか分からない所ではあるが、簡単に言うと今の天皇陛下のお母さんの叔父さんである。ゴルフの名手でもあったらしく、東京ゴルフ倶楽部の名誉会長を勤めた。なお、東京ゴルフ倶楽部は埼玉に移ったのだが、その場所は朝香宮にちなんで朝霞となったとのことだ。
写真を見るとなかなかダンディな感じであるが、若いころはヨーロッパに留学し、その影響によってこの邸宅を当時の流行りであるアール・デコ様式にしたそう。
またまたよく聞くけれども分からないのが、「アール・デコ」という言葉である。
ウィキペディアによると、これはどうも建築様式の一つである。
アール・デコ(仏:Art Déco)とは、一般にアール・ヌーヴォーの時代に続き、ヨーロッパおよびアメリカ合衆国(ニューヨーク)を中心に1910年代半ばから1930年代にかけて流行、発展した装飾の一傾向。原義は装飾美術。
出典 アール・デコ - Wikipedia
20世紀の前半に流行った様式であり、1925年方式とも言われるらしい。デザイン的な部分で言うと、当時は世界中の古代の遺跡発掘が進んだ時代である。インディ・ジョーンズで描かれる時代だ。
その影響によって、古代エジプトやアステカなどの装飾を取入れたり、中国や日本などの東洋美術などの雰囲気も持つ。さらには時代背景である大量消費・都市生活など工業生産的な観点も取り入れたデザインである。
それらは機械的で幾何学的な感じがありつつ、オリエンタルな雰囲気が溢れたりする、なんとも言えない不思議なデザインだなと思った。
とは言え、東京においてはこのアール・デコ建築は多く見かける。
例えば伊勢丹新宿本店(1926年)。
それに、銀座の和光(1932年)など。
関東大震災が1923年であるが、江戸の延長であった街の形が、今の東京の原型へと大きく姿を変えた時代でもある。
現在の東京においても歴史のありそうな建物はこのアール・デコ様式によるデザインだったりするわけで。そう考えると東京に住む人間としては馴染みの深いものに感じられた。
東京都庭園美術館ではこの日、マスク展をやっていてた。
アフリカをはじめとする世界中の伝統的で土着的なマスクを集めた展示であるが、この洋館の色んな部屋にそれらのマスクは置かれていて、建物とマスクとを同時に楽しめた。
アール・デコの持つオリエンタルな雰囲気は、このなんとも摩訶不思議なマスク達となぜかよく合っていたのだ。
おそらく舞踏会でも開かれたであろう大広間、そこから庭園へのアプローチには香水によって芳醇な香りを漂わせたという噴水が置かれていた。殿下や姫君はそれぞれのプライベートルームを持ち、それらは高貴さと秩序正しい生活を想像させた。
それにしても、それらのマスクはおどろおどろしい物であった。
▽東京都庭園美術館|フランス国立ケ・ブランリ美術館所蔵 マスク展 2015年4月25日(土)-6月30日(火)
出典 http://www.teien-art-museum.ne.jp/exhibition/150425-0630_mask.html
間違いなく怖い。
カーテンが閉められた真っ暗な書斎に、3つのマスクがぼおっと浮かんでいた時は、大人の僕でも背筋に冷たいものを感じたほどだった。
これらのマスクは、死者の葬送や成人の儀式に使うものから、徴税官が税を徴収する時に使ったものだという。
いわゆる「祭りごと」と「政(まつりごと)」に使われたものである。
宗教にせよ権力にせよ、本来は何も無い空白的でよく分からないものに、ある種のパワーを与え民衆を押さえつけられるためには、畏怖や怖さというものを利用したのだと思わせた。
原始的な権力とは畏怖の対象であり、怖いものであったのだ。
しかし時代は進む。
権力は軍隊や官僚組織という現実的なパワーを備え付け、法律や選挙によって民衆の合意を得たことで、畏怖や怖さを必要としなくなった。
王や貴族は象徴的な存在として祭り上げられ、彼らに求めらることになったのは高貴さと尊敬である。
「ノブレス・オブリージュ」という言葉を聞いたことあるだろう。
「高貴さとは義務を強制する」ということであり、財産や権力、社会的地位を持つということは、責任が伴うということである。
王や貴族は民衆から尊敬されるべき振る舞いが義務付けられ、例えば戦争の時においては自己犠牲も厭わず中心的な役割も求められるのだ。
この朝香宮も、王子の1人を太平洋戦の激戦地で亡くしている。
正直言って、毎日の日銭を考えてカツカツやるよりも、求められるべき義務と振る舞いがあったとしても、優雅な生活の方が良いかと思ってしまうのだが、まあ庶民では考えられないレベルでの色んな悩みもあるのだろう。
広い庭を見渡すと、そんな貴族の気持ちを少しだけ理解出来るかもしれない。
美術館として新しく造られた新館にはカフェが併設されていて、堀口珈琲のコーヒーゼリーを食べることが出来た。
閉館時間が近づいた貴族の元屋敷は静かに佇み、初夏の夕陽は柔らかいオレンジ色となり広い庭を包んでいた。
若草色の芝生は丁寧に手入れをされていて、一面の絨毯のようだった。
この朝香宮邸は、あくまで貴族の建物である。
商人は金を、政治家は権力を生きる糧とするが、貴族は生まれながらにして与えられているものであり、それらを持つ者としての規範的な生活をしていたのではないかと想像させた。
帰路に途中、目黒駅の近くでこんなお店を見つけた。
やはり、この街には貴族が似合うようだ。
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